Quantcast
Channel: 憂国の志士のブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2264

中華圏からの脱出を宣言できたのは、日本が日清戦争で勝ったおかげだろw 笑わせてくれるね。

$
0
0

国恥「大韓帝国」歴史コンプレックスのルーツw

1897年10月12日に始まり、1910年8月29日に終わった大韓帝国は、人々に忘れ去られた 「悲運の帝国」だ。大韓帝国の寿命は13年にもならず、日露戦争が始まった 1904年からは「植物状態」だったからだ。

当初は野心にあふれていた。ロシア公使館に1年間逃れていた朝鮮第26代国王・高宗は 1897年に慶運宮に戻り、元号を「光武」に改めた。 そして皇帝と称した。500年以上仕えてきた中国の影響圏から脱し、堂々たる主権国家であることを 宣言したのだ。

高宗は当時の時代精神である富国強兵の先駆けだった。しかし、時は高宗と改革勢力を待ってはくれなかった。 改革への意志の強さも能力も不十分だった。
1902年の日英同盟、05年の第2次日英同盟、桂・タフト協定、ポーツマス条約などで日本は 韓半島(朝鮮半島)の支配権を得るために西欧列強を説得した。
 
高宗の改革は「コップの中の嵐」に終わった。 そして07年に高宗が強制的に退位させられた時、大韓帝国の運命は終わった。 失敗を振り返ってざんげする時間も、功罪を検討する省察の機会もないまま大韓帝国は消えた。 大韓帝国は私たちに何を残したのだろうか。 亡国から103年目にあたる29日を迎え、政治学者と歴史学者が紙面で議論を行った。

■キム・ミョンソプ延世大学政治外交科教授
1897年10月12日、朝鮮国王・高宗は中国の「天子」だけが主宰できた「天祭」を圜丘壇で 執り行い、光武皇帝となった。 国号も明の皇帝が決めた「朝鮮」から「馬韓」「辰韓」「弁韓」のをすべて継承する「大韓」に変えた。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/08/29/2013082901565.html
国際社会は、主権平等のヴェストファーレン原理(Rex est Imperator in regno suo=王は自身の領内で皇帝だ) に準じて大韓帝国を承認し、列強が朝鮮と結んだ複数の「条約」は大韓帝国へと継承された。 1899年には清国と対等に近代的通商条約を結び、ベルギー・デンマークなどへも国交を広げた。 万国郵便連合(UPU)などの国際機関では今も、大韓帝国が加入した1900年を韓国の加入年度として認めている。

それにもかかわらず現在の韓国で大韓帝国が低く評価されているのはなぜだろうか?  第一に、韓国の光復(日本による植民地支配からの解放)に寄与した大韓民国臨時政府、 そして護国・産業化・民主化を成し遂げた現在の韓国に比べ、大韓帝国は忘れ去ってしまいたい 「亡国」の歴史に満ちているためだ。 第二に、光武皇帝は国内的に権力を強化しようとした面ばかり見られること。 第三に、大韓帝国樹立当時から崔益鉉(チェ・イクヒョン)、柳麟錫(ユ・インソク)らに 代表された中華主義的知識人は「小中華の国から皇帝を名乗ることは愚かにも自らを高めること」 と評してきたこと。 第四に、北朝鮮の「朝鮮通史」は朝鮮民族史観に立脚し、大韓帝国が存在したという事実さえ 消し去ってしまったことだ。

だが、時空間的にもう少し視野を広げて大韓帝国の世界史における意味を見る必要がある。 まず、大韓帝国は1637年の「南漢山城と三田渡の屈辱」(朝鮮第16代国王・仁祖が清皇帝ホンタイジに 許しを請うた出来事)以来、 260年ぶりに清国と対等な関係を実現させた。 それを記念してソウル市内に現存する「独立門」が建てられた。

次に、1689年以降、朝鮮が安住してきたネルチンスク条約の平和体制がアヘン戦争やロシアの 領土拡大再開、日清戦争などで崩壊した状況で、朝鮮の文弱を克服しようというのが 光武皇帝の考えだった。 第三に、万民共同会などで国民主権国家へ発展できないという対内的な限界があったものの、大韓帝国が確立した対外的な主権は独島(日本名:竹島)や間島といった北東アジア領土問題の 国際的解釈にもつながっている。 第四に、統一を考えると、国際社会が認めた韓国の分断前の状態は、大韓民国臨時政府ではなく大韓帝国だった。
第五に、光武皇帝が啓蒙君主ではなかったと批判されるとしても、後代の視点で 作り上げた理想的な物差しだけで裁断せずに、直前の憲宗や哲宗、同時代を生きたチベットの ダライ・ラマ13世とも比較してみなければならない。

帝国が衝突した時空間で大韓帝国が含蓄した世界史的意味を正当に認識してはじめて、韓国が 日本に支配され、日本帝国内の「朝鮮」になることを強要された不当性を国際社会にきちんと説明できる。 「大韓の人よ、大韓をとわに守れ」という愛国歌の歌詞が作られた大韓帝国当時の念願を忘れてはならない。


 衣装はスゴく立派なんだけど、中身が伴わないと似合わないなぁ・・・。

馬鹿な不良のガキに、無理やりスーツを着せたような違和感があるなw


>1897年に慶運宮に戻り、元号を「光武」に改めた。そして皇帝と称した

500年以上仕えてきた中国の影響圏から脱し、堂々たる主権国家である

ことを宣言したのだ。

 中華圏からの脱出を宣言できたのは、日本が日清戦争で勝ったおかげ

だろw 昔も今も、日本の力を借りないと何もできないのは変わらないねぇw

日本も「一国」と して扱おうとしたけど、チョンのバカがヒドすぎたのと日本を

裏切ってばかりだったから、根本から直さなければダメだっていうことで統治

してやったんじゃないか。無駄だったけどね。バカは殺さなければダメだっ

て事だな。


外国人の朝鮮の批評


 「朝鮮紀行」の序文は、1897年(明治30年)10月付で駐朝イギリス総領事の

ウォルター・C・ヒリアーという人が書いているのですが、そこにこのような記述があります。

「朝鮮についていくらかでもご存じのすべての人々にとって、現在朝鮮が国として存続するには、大なり小なり保護状態におかれることが絶対的に必要であるのは明白であろう。 日本の武力によってもたらされた名目上の独立も朝鮮には使いこなせぬ特典で、絶望的に腐敗しきった行政という重荷に朝鮮はあえぎつづけている。


 かつては清が、どの属国に対しても現地の利害には素知らぬ顔の態度をくずさぬまま、助言者と指導者としての役割を担っていたが、清国軍が朝鮮から撤退後は日本がその役目を請け負った。 最も顕著な悪弊を改革する日本の努力は、いくぶん乱暴に行われはしたものの真摯であったことはまちがいない」


イザベラ・バード1894年始めてソウルを訪れたバードはソウルについて次のように述べている。58-60頁

「北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず…」

「こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだと言うことが分かる。又溝から2,3フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、これは家の中を暖めるとと言う役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。」

「瓦屋根の反り返った上流階級の家屋でも、通りから見た体裁の悪さと言う点ではなんら変わりがない。」

シャルル・ダレ、住居の項にて:289頁

「貴方はみすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。では貴方の知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を更に落として想像してみてください。するとそれがみすぼらしい朝鮮の住まいについての、殆ど正確な姿となるでしょう。」

「2階建ての家は探しても無駄です。そのようなものを朝鮮人は知らないのです」

韓国誌  573-574頁

「貴顕紳士の家にありては通常瓦葺きの門ありて廣き邸宅の入り口をなし、門に対して主屋あり。主屋は南に向きて……。家屋の高さは人の身長よりやや高きのみにして……」

「平民の家は前に記すものと著しく相違し、憫なる小屋にして、粘土よりなり、低矮なるが故に注意せざれば頭天井に触撃せらるべし。家の広さは最も大なるもの約4坪余りにして、3坪を超えざる物甚だ多く、外面の高さは僅かに4尺7寸とす。

マッケンジー  29-30頁、32頁

(開国後)「最初の数年間、朝鮮に入国した外国人の大多数が見たのは、開港地である釜山、済物浦及び首都だけに局限されていた。これらの場所で彼らは朝鮮の最も悪い面を見た。特にソウルには貴族や宮廷に寄生する食客の大群がおり、彼らは怠惰で不潔であり、農村地方では見られないような下劣さを感じさせるのであった。」

「当時の朝鮮人の生活を鮮やかに描くには、朝鮮民衆の陰影とミステリーを強烈に誇張して描かなくては不可能である。ソウルそれ自体については、どれをとってもそれがあまりに悪いとは言えないというくらいの状態であるが、一方地方の民衆に関する限りでは、その大部分が繁栄と潤沢の生計を維持していると言って大過ないであろう。……この国では乞食は殆どおらず、いてもほんの僅かであった。ここでは……貧民救済制度はその必要がない。」


こんな国を、人間が住める国にまで改善してやったのに、「千年恨む」だからな・・・日本に見捨てられて当然だろ?日本人に感謝してくれる台湾の人たち

を見習えと事は言わないさ。サルに因数分解レベルの難しいことをやれって言っても無理なのは分かっているからね。だがいい加減、嘘ばかり並べて、日本を悪者扱いするのは止めたらどうだ?


> ロシア公使館に1年間逃れていた朝鮮第26代国王・高宗は 1897年に慶運宮に戻り、元号を「光武」に改めた。 そして皇帝と称した。500年以上仕えてきた中国の影響圏から脱し、堂々たる主権国家であることを 宣言したのだ。

朝鮮の王様が、ロシアの公使館で何やってたんだよ?それに500年も中国に仕えていたなんて爆弾発言していいのか?火病したチョンが、チョン国のあちこちでテロ行為に走っても知らんぞwww今日もチョンが、ホテルの前でガソリンまいて火をつけた事件があったしな。ソウルが火の海になってしまうぜ。


ウィキペの下関条約の韓国語版開いてグーぐる翻訳にかけたらこうなってた。
===
下関条約 (下?条?、??条?、中国:??条?、 日本:下?条? )は、1895年3月20日から山口県下関市で開かれた 日清戦争の講和会議で締結された条約で韓国語の発音に下関条約とも呼ばれた。4月17日、日本帝国の伊藤博文と清の李鴻章の間で締結された。 この条約は、5つの項目で清の朝鮮干渉を退けて日本が朝鮮 と満州まで支配力を伸ばせるようにした。

・背景
清と日本の国が朝鮮の支配権をめぐり、1894年7月25日から1895年4月までに行った戦争である。 中国では甲午年に起こったとしている日清戦争 (中日甲午?争/中日甲午?争)、 日本では日清戦争 (日清戦争)、西洋では、 第1次日中戦争 (First Sino-Japanese War)とも呼ぶ。 日清戦争は清の退化と無力さを如実に現わし、 洋務運動 の限界を見せてくれた戦争であり、 日本の明治維新以降の近代化は、中国の洋務運動に比べて成功したことを証明した。

・条約の内容
1.朝鮮 は清国は、朝鮮国完全無欠の独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害以下のような朝鮮から清への朝貢・献上・前例等は永遠に廃止する。(第1条)
2.清は遼東半島、台湾島、澎湖諸島などの付属の島々の主権とその地域の胸壁、兵器工場などを永遠に日本帝国に割譲する。(第2条3項)
3.清国は日本の国に賠償金2オクニャンを支払う。(第4条) 清国のサス、重慶、蘇州、杭州の開港と日本船舶の長江とその付属河川の自由通航許容し、
日本人の習慣、販売、貿易の自由を承認すること

・下関条約と朝鮮
日本や中国その他の国の歴史学界の主流は下関条約によって、朝鮮が清から独立した見解だ。 しかし、韓国の歴史学界ではこのような見方を否定し、朝鮮はそれ以前から実質的な独立国であったと述べている。


チョン国の歴史学会が「朝鮮が以前から独立国家だった」って公表してる

のに、チョン国の新聞の一流誌が真実を暴露してしまっていいのかよ?

500年間中国の支配域だって書いちゃってるぞwww


>大韓帝国は1637年の「南漢山城と三田渡の屈辱」(朝鮮第16代国王・仁祖が清皇帝ホンタイジに 許しを請うた出来事)以来、 260年ぶりに清国と対等な関係を実現させた。 それを記念してソウル市内に現存する「独立門」が建てられた。


これもまた爆弾発言だなwwwチョンの愚民は「独立門は日帝から解放された

時に作られたものだ」と信じ込んじゃってるのにwww


ソウル独立門の由来に現地若者「日本からだ!」
→正解は中国

井沢元彦氏は1954年、名古屋生まれ。週刊ポストに連載中の『逆説の日本史』はシリーズ累計440万部を突破した。10月より小学館のウェブマガジン『BOOK PEOPLE』にて『逆説の世界史』も連載中の井沢氏が、朝鮮半島の過去現在未来を、東アジア流転の歴史から読み解いている。

* * *

朝鮮半島の国家は歴史的に「つらい」国であった。日本のように海に囲まれておらず、中国と陸続きであるから、何かと中国が戦争を仕掛けて来る。七世紀高句麗や百済は唐に抵抗したが、新羅の金春秋(武烈王)は結局唐の臣下(新羅国王)となってライバルを滅し半島を統一する道を選んだ。これ以後、半島の国家は新羅であれ高麗であれ朝鮮であれ、すべて「国王」すなわち中国皇帝の臣下であった。それが歴史上のまぎれもない事実だ。


だからこそ、日本が清との日清戦争に勝って、下関条約で中国に初めて「朝鮮国の独立」を認めさせた時、これで長年にわたる屈辱から解放されたと喜んだ朝鮮人は、欣喜雀躍して独立門を建てた。これが今も大韓民国ソウル特別市にある独立門だ。つまりこれは「中国からの独立」を記念して建てられたものであり、朝鮮人もそれを明確に意識していたということなのだ。

現在ある場所に建てられたのも理由がある。ここは、迎恩門といい、朝鮮歴代の王が中国皇帝の使者を迎えるにあたって土下座以上の屈辱的な三跪九叩頭の礼をさせられていた場所なのである。骨の髄まで中国文化(儒教文化)に染まっていた朝鮮は漢民族の国家である明が滅ぼされ、遊牧民族が清を建てた時、「野蛮人には従えない」と明に義理立てした。


怒った清は朝鮮に「征伐軍」を送り、朝鮮の仁祖王を追い詰め「土下座(正確には三跪九叩頭礼)」をさせて服属させた。これは「神話」ではない、事実である。しかも、清国皇帝は「お前たち朝鮮人を滅ぼさないで済ませてやったのだぞ。恩義と思え」と強制し、歴代国王に三跪九叩頭礼を強制した。その場所が「迎恩門」なのである。


日本が清に勝ち、朝鮮の独立を認めさせた時、まず朝鮮人たちが行なったことが迎恩門の破壊であった。そして、募金によって独立門が建てられたのだ。ところが、韓国の若い世代はこのことを知らない。「有史以来、朝鮮半島の国は独立国家であった」などというデタラメが学校で教えられているからだ。


独立門前で「この独立って、どこの国からの独立?」と質問すると、多くの若者はそんなことも知らないのかと憤慨しつつ「日本からに決まっているだろう」と答える。しかし、そこで「でも、説明板を見てごらん。この独立門が建てられたのは一八九七年だ。韓国併合は一九一〇年だし、光復(独立)は一九四五年だろう。それ以前の話なんだよ」と言うと、彼等は絶句し思考停止してしまう。


 せっかく漢字教育を廃止してまで、チョンの愚民の洗脳をしたのに。あっさり

真実をばらしちゃっていいのかよ?「どうせ新聞なんて高価なものを愚民は

読まないから、何書いたっていいだろw」と自暴自棄になったのか?

「中国からの独立?おかしいニダ!ウリと中国は長年のパートナーだった

ハズにだ。朝鮮日報が嘘を書いてるニダ!」って展開になって、焼き討ち

されても知らんぞwwwしかしチョンの愚民って、本当に馬鹿だよな。説明文

も読めないのか?まぁ、漢字が混ざってるから、チョンには読めなくて当たり

前なのかもね。しかしあれだけ反日と愛国を声高く叫んでるのに、自国の歴史もまともに把握できないなんて、哀れとしか言い様がないな。まぁ、真実を見たくないって気持ちは理解できなくはないけどねwww


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2264

Trending Articles