訃報:パク・ウィナムさん93歳=元慰安婦
ファン・ソンスンさんの死から5日、生存者は53人に
旧日本軍の元慰安婦だったファン・ソンスンさんが死去してからわずか5日後、また1人の元慰安婦がこの世を去った。今年に入ってから2人が亡くなったことになる。これにより、韓国政府に登録されている旧日本軍の元慰安婦238人のうち、生存者は53人にまで減った。
韓国挺身隊問題対策協議会は2日、韓国政府に登録されている元慰安婦のパク・ウィナムさん(93)が、先月31日に持病のため亡くなったと発表した。女性家族部と挺対協によると、パクさんは16歳だった1938年「満州(中国東北部)の軍需工場に行けば金を稼げる」という近所の人の話にだまされ、慰安婦として連れていかれ、7年にわたって辛酸をなめた。光復(日本の植民地支配からの解放)とともに帰国したが、慰安婦として働いた事による身体的・精神的な後遺症の為、苦しい生活を強いられた。
女性家族部によると、パクさんは婦人科疾患に悩まされ、死にもつながったという。生活保護を受給していたため病院の費用は免除されたが、まともな収入がないまま江原道や慶尚北道などで度々引っ越しを繰り返し、子どもを産むこともできず、妹の息子を養子にした。
亡くなる6カ月前の昨年8月、ようやく政府に旧日本軍の元慰安婦として登録された。遺族は「故人の過去の記憶を呼び覚ますのはとてもつらかったため、登録が遅れた」と話した。パクさんの元慰安婦としての登録を支援した女性家族部の関係者は「慰安婦の『慰』の字を口にするだけでも驚かれたため、調査も容易ではなかった。妹たちを通じて過去の経歴について聞き、ようやく登録できた」と話した。
パクさんの遺族は葬儀を身内だけで行い、遺骨は忠清南道天安市の「望郷の丘」に安置した。「望郷の丘」は1976年、祖国への埋葬を願う海外在住の韓国人100万人のために開設された国立墓地だ。挺対協はこの日、パクさんの死去について公表し「1日も早く慰安婦問題が解決し、残された時間があまりない被害者たちが、真の意味で解放されるようにしてほしい」と訴えた。
ずいぶん長生きしたものだなwww まぁ、若い時に贅沢三昧。軍事独裁国家の時も売春で稼ぎ、民主主義になってからは慰安婦詐欺で稼いできたんだ。働きもしないで金に恵まれ、贅沢三昧すれば長生きもできるかw かぞくはそりゃ、哀しいだろうな。金を稼ぐネタが死んだんだから、路頭に迷っちゃうからねw 詐欺ババアが死んだ後でも、謝罪と賠償を求め続けるんだろうな。そういう存在を、日本では「寄生虫」と言うんだぞwww
>「満州(中国東北部)の軍需工場に行けば、金を稼げる」という近所の人の話にだまされ、慰安婦として連れていかれ、7年にわたって辛酸をなめた
日本軍に強制連行されたんじゃなかったの?「ジープで連れ去られた」とか言ってなかったかwww 「朝鮮戦争で慰安婦していた」っていうボケた証言も言っていたなw 恨むのなら、近所のチョンを恨めよ。そんなに苦しかったら、自殺とか考えなかった?軍人よりも高い給料を貰って、優雅な生活なんてやっていたから、今現代でも、それを夢見て、チョンのメスが売春婦をやっているんじゃないかwww
慰安婦をやっていたのを恥だと思っていたのなら、外国で売春婦をやってるチョンのメスどもにも「金儲けの為に売春なんて、恥知らずな事は止めろ!」って叫ぶべきじゃないのか?そいつらが欧米や中国で股を開いて、「チョンのメスは整形売春婦」って事実を常識にしているぞwww はっきり言って「売春」を、恥な事とは思っていないんだろw 嘘をついて金を儲けるのが当然って民族だからな。股を開いて金を稼ぐのは、まっとうな商売な方かwww
【東京特派員】「性奴隷」とまで引き上げられた日本の〝悪辣度〟 汚名をそそぐ反論があった韓国政府が自信と確証を持って公表した慰安婦証言
http://www.sankei.com/column/print/141111/clm1411110010-c.html
満州国奉天省海城県警察で、慰安婦を扱った元経済保安股(課)長は、
「ほとんど朝鮮の人だったが、戸籍謄本と医者の健康診断書、それと親の承諾書、本人の写真、そして許可申請を一括して私の所に持って来る訳です。ですから、強制連行とか、さらって来たなんていうものではない。何でさらわれて来た者に、親の承諾書や戸籍謄本がついてるのか」と語った。
今の状態の方がヒドイじゃないかwww 偽造パスポートと観光ビザで潜り込んで、アメリカ人と偽装結婚して、アメリカ市民権を獲得w 病院に行くこともなければ、避妊具も付けやしない。エイズとドラッグを蔓延させて、普通のアメリカの都市の治安を悪化させて、スラム化させてしまう。
慰安婦像は「侵略完了」のモミュメントだなwww 「慰安婦像」ではなく、「悪魔売春婦」の像と改名したらどうだ?いや、悪魔に失礼かw 悪魔でも、契約や約束は律儀に守るからねwww チョンは悪魔以下の存在。慰安婦の婆も、今頃は地獄の業火に焼かれてるんじゃない?
歴史を創る物語
「あんなたくさんの軍人たちが、私にあれほど来るとは夢にも思わなかった」
コン・ジョムヨプ
1920年 全羅南道務安生まれ
1935年 16歳 平壌の職業紹介所にだまされて行く
海城-上海-ハルビンなどで日本軍「慰安婦」の生活
「ある日、許可が出たっていうのさ、許可が出たって。『何の許可が出たんですか?』って聞いたら、父さんと母さんに、私の故郷に、全羅道の故郷に電話して、警察から全部連絡して、父さんの承諾をもらったから、署から許可が出て、客の相手をすることになったって言うのさ。」
http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.do?levelId=iswj_002j_0010
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・日本が慰安所を設置したのは1938年以降 本当に慰安婦だったならば19歳以降のはず
・日本軍が強制連行したのではなく、両親が金目当てに売り飛ばしただけwww
「日本のやつらめ、戦争じゃなかったら、私たちが行くはずないだろう」
キム・ファジャ(仮名)
1926年 慶尚北道安康生まれ
1942年(17歳) 家から就業詐欺により連行 台湾キゴで日本軍「慰安婦」の生活
1946年頃(21歳頃) 船に乗って釜山に帰国
http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.do?levelId=iswj_003j_0010
・17歳で連行されたと証言しているのに、初めて慰安婦として軍人を相手したのは15~16歳と主張
・1946年に釜山~台湾間の航路は存在せず、証言している船が当該航路に就航していた記録も無い
(故に梁順任(植村隆の義母)は自称慰安婦達に「台湾に行ったとは言うな」と証言指導をしていた)
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=3J6BuA9elGg
ニコニコ動画のアカウントを持ってる方はこちらwww
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24188858
・証言の慰安所「花月」は台北にあった慰安所で、キゴには存在しないよw
「胸の奥にしまっておいたことを話そうとしたら、私の胸も張り裂けるよ」
カン・イルチュル
1928年 慶尚北道尚州生まれ
1943年(16歳) 家から日本軍「慰安婦」として連行
安東・新義州を経由-長春-牡丹江の慰安所へ移動
1945年(18歳) 初夏に朝鮮人に救助され、卾倫春へ避難
解放後に吉林市近郊の集安県で朝鮮人と初婚
http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.do?levelId=iswj_005j_0010
証言の変遷
2009年 :1943年に軍靴の紐を編む工場で働くと言われ、16歳で強制連行
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2010年 :1945年、17歳の時に2年にわたり長春や牡丹江などで被害に遭う
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2012年 :15歳で吉林の慰安所に連れて行かれ4年過ごした
・1944年8~9月に牡丹江に着き、1945年8月に終戦(証言では救出)なので、3~4年も慰安婦だったはずがないw
・1943~1944年は、南方戦線への兵力増強のために、北部支那の師団の多くは撤退していた。そこに新たな慰安婦を送り込む必要があったのか?
ここまでコロコロ証言が変わったら、どこの国でも裁判所では取り上げないよwww 忘れることが出来ないつらい過去なのに、よくまぁ、喧嘩する証言だなw はっきり言って、このババアどもは女性の敵だね。女性の意見も聞いてみたい。私の発言は女性蔑視だろうか?このババアどもの存在は、「女性の尊厳」を踏みにじっているとしか思えないのだけどねwww
「どうしたら、この仇を討てるだろう。」
ソク・スンヒ(仮名)
1928年 ソウル市麻浦生まれ
1941年(14歳) ソウル市麻浦区ポクサゴルで連行、中国まで移動
内モンゴルと推定される所で日本軍「慰安婦」の生活
http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.do?levelId=iswj_006j_0010
・内蒙古に存在した慰安所はたったの5ヶ所
・1942年から開始されていたが、兵力の南方戦線への転換中に慰安婦補充は非現実的
・証言「土曜日曜は休みだから」→当時の日本軍の休日は隔週日曜日のみ
・証言「コンドームは見たこともない」→日本軍は官品支給有 サックを使わないのは米軍
要するに米軍慰安婦だったことが証明www
ノ・チョンジャ
1920年 忠清南道大徳郡生まれ
(住民登録上の年度は1922年)
1934年(15歳)
卷番(日本帝国強占期の妓生たちの組合)に入り、踊りと歌を学ぶ
1938年頃(19歳頃)
日本の憲兵に連行される満州などで日本軍「慰安婦」の生活
1945年頃(26歳頃)
解放後に帰国
「だから、私があの時、17歳だったか、18歳だったかな。農村では畑作なんかもするじゃないか。何人かの小作人と畑の雑草を取っていたら、黄色い服を着たやつらが4人か5人やって来て。」
「日本のやつら、だから憲兵隊、ここの刑事と同じようなもんだよ。巡査よりも階級が高いっていうやつらだよ。」
「黄色い、全部軍人なんだけど、軍人の前で歌を歌ったんだ。食堂で慰問団をしたんだ。」
↓
当時の日本軍には黄色の軍服は無く、
中国国民党の軍官学校の教官が着ていた
軍服の色が黄色だった。
支那国民党軍の慰安婦まで入り込んできたなwww
慰安婦をやっていたのが、そんなに誇らしいことなのかな?国のためを思うのなら、子孫の為にも辛い過去を忘れて、両国の親交を深めさせて戦争を阻止させるのが、生き残った者の役目じゃないの?少なくとも日本国民はそう考えて、原爆を落としたアメリカへの恨みも考えず、友好と協力を心掛けている。ロシアや中国の脅威もあるが、基本的に今のアメリカ市民には関係のない話だからだ。子孫にまで恨みを追究して何がしたいのだ?いつまでも過去の亡霊を引きずっているから、進化できないんだよ。シナチョンどもはねw
あと53匹もいるのか。生きてる限り、謝罪と賠償を求め続けるんだね。この婆が生きている限り、チョンの愚民は反日を叫び続けるだろうし、日本国民のチョンへの侮蔑と嫌悪の感情は増すばかりだからwww チョンとの友好なんて、絶対に無理だ。レイプ魔と売春婦しかいない民族と仲良くするなんて、害悪なだけだ。寄生虫民族は一匹残らず、日本からたたき出すべき!売国奴と在日チョンは、日本国民の敵だ!犯罪者として処断すべき!